初めまして。当ブログを運営している もやし(@moyashi3333)です。
- もやし(@moyashi3333)
- 1992年生まれ(27歳)
- 三重県のド田舎で育つ
- 大阪大学法学部卒
- 拠点:主に東京。他バンコク、東海地方
- 日系メーカーの海外部門で事業企画を5年弱行なっていました。
- 現在はフリーランスとして、主にWeb制作(たまにライター)を行なっています。
- 好きなこと:ファッション、本・漫画、美味しいもの。
このブログについて
以下の内容を主に発信します。
- Web制作におけるデザイン・コーディングのお役立ち情報
- フリーランスとして食べていくためのTips
- その他プログラミング情報全般
(元々は、主に名古屋情報(会社員時代は名古屋住みでした)や歯列矯正の記事を書いていました。今後もちょいちょい趣味ブログを書くかもです)
現在の仕事・スキル
Web制作(ホームページの作成)をメインに、フリーランスとして活動しています。
- WordPressでのホームページ制作が得意です。
- コーポレートサイト作成だけでなく、LP(ランディングページ)作成や部分修正も対応可能です。
- 制作チームに所属しています。デザイン設計から一貫して制作ができるため、安心してご依頼いただけます。
【使用言語】
HTML(Pug/Jade)、CSS(Sass)、JavaScript(jQuery)、SQL、PHP(WordPress/Laravel)、Ruby(Rails)
【その他】
Git、MAMP、Vagrant、テスト用サーバー・ドメインあり
【デザインツール】
XD、Photoshop、Illustrator、Figma
会社員を辞めてフリーランスになるまで
田舎でのびのびと育った幼少期~小学生時代
三重のド田舎でのんびりと、そして健やかに育ちました。
外で遊び周るには絶好の田舎な環境だったので、中学に上がるまでは毎日のように兄や近所の子と外で遊んでいました。ドジョウやタニシ、ザリガニとよく戯れていたなあ。
小学校の学区は信号が1つしかないような田舎だったので、公立の中学に上がったときは周りのみんなが都会っ子に見えて恐怖でした。中学も十分な田舎環境だと知るのは後の話です。笑
ちょっとの工夫で「田舎ネタ」を面白くする具体的な2つのアプローチ
毎日が生き生きとしていた中学時代
中学時代の3年間は本当に楽しく、毎日の授業や部活、体育祭や恋愛、友達とのことなど全てが良い思い出です。ちなみに部活はバレー部でした。
クラスで積極的に発言するようなキャラでした。生徒会もしていたし、いわゆる優等生な生徒だったと思います。
ほんと毎日、生き生きとしていました。そういえば中学の卒業文集に、「中学3年生の1年間は毎日がキラキラしていた。今後の人生でこの充足感を超える1年はないと思う。」とか書いたような気がします。将来暗いかよ。笑
勉強勉強とうるさかった高校時代
高校は自称進学校の公立のところに進学したのですが、とにかく勉強しろ勉強しろとうるさかった印象が強いです。
僕の両親は「勉強しろ」とかそういうことを言わないし、中学に入ってからは良い意味で放任主義でした。それもあってか、高校での「勉強しろ」な環境がすぐ嫌になりました。笑 それでも、高校2年以降は楽しかったです!
相変わらず「受験生は1日10時間勉強しろ!」とか「夏期講習に行って勉強!」みたいな感じでうるさかったですが、「量より質だろ」と思っていた僕は、塾にも行かずマイペースにやっていました。この辺りで自分の強みのひとつは「集中力」だと自覚しました。
ちなみに、僕の高校時代最大の後悔を述べるとすれば、彼女とキャッキャウフフな高校生時代を送れなかったこと。これは悔やんでも悔やみきれません(真顔)。
”食い倒れの街”大阪へ!かっこいい人達と過ごした大学時代
志望校であった大阪大学に無事合格し、食い倒れの街大阪へ。三重の田舎から大阪に出てきたので、ビルを見上げるという田舎者丸出しな感じでした。笑
大学時代は、友人が立ち上げたファッションサークルに参加していました。「阪大のダサいイメージを変えられないかな」という思いから始まったサークル。
街行くお洒落さんをスナップさせてもったり古着屋を取材したりした内容を、フリーペーパーにして発刊するというのが主な活動内容でした。
また、年に1度の学際での古着屋開催も。教室の内装を雰囲気ある”古着屋”に変えたこと、ブログを使って商品紹介などのPRを行ったことが功を奏して、3日間で外部の人も含めて多くの人が来店してくれ、数十万円の売上を達成しました。
好きな仲間と一緒に何かを仕掛ける・主催する側の面白さは、この大学祭初の”古着屋”出店の経験で大きく感じたことです。
ブルーな気持ちになりながら就活、そして就職へ
大学生活も終盤。就活の時期がやってきます。
就活は「こんな就活の制度おかしいやろ…」「こんなんで僕のこの先の人生が決まるのか」と不満や違和感を感じつつも、周囲の流れに逆らう勇気が出ませんでした。
大学時代、これといったスキルも身に着けていなかったことから、志望していた企業の面接に落とされる日々が続きます。
というより、本当にその会社で働くことを志望しているかと言えば、そうではなかったです。「せっかく難関大学に入ったし、このまま大企業に入れば安心」という正しいのかもわからない暗黙の了解に従っていただけです。
それでも、僕を必要だと判断し採用してくれた企業がありました。
運良くホワイト企業に就職。でも…
入社することになった会社はメーカーで、いわゆる「ホワイト企業」でした。残業もほとんどない、給料もそこそこ貰える、福利厚生も整っている、職場の人間関係は良好。
ラッキーだったと思います。
でも、次第に仕事に対する”やりがい”を感じられなくなり、モヤモヤするように。
最初の頃は、海外を舞台にした仕事に胸が躍っていたのも事実です。それがいつしか「生活のため・給料のためにする仕事」、「給料=ストレスの対価」となっていきました。
このままこの会社で働き続けて、僕は幸せと言えるんだろうか。
大阪大学を卒業後「ホワイト企業」に就職した社会人4年目の僕は幸せなのか
そんなモヤモヤした気持ちの中、会社による急な異動の人事がありました。それが決定打となって、今後の自分の生き方・働き方をどうしていくかを強く考えるようになりました。
「会社に人生を左右される」を実感した瞬間|働き方を考えるようになったきっかけ
尊敬する母親に聞く「仕事」の話。生き生きと働く身近な女性から得るヒント
会社を退職して、バンコクのノマドエンジニア養成講座「iSara」に参加
急な異動をきっかけに小さかった違和感が大きくなり、副業を始めてみたり、社外の環境にいる人々に会いに行ってみたり。
Web制作の勉強を始めたのはこの頃からです。元々プログラムやデザインには興味があったため、この頃から現在も楽しく取り組めています。
随分悩みましたが、最終的にはフリーランスとして挑戦してみることを決意し退職。当時26歳、しばらく働かなくても暮らせる貯金もあるし、副業もしていたので何とかなるだろうと(彼女は猛反対…笑)。
ちょうど退職してすぐのタイミングで、興味のあった「iSara(イサラ)」に参加(2018年12月)しました。iSaraはバンコクで開催されるノマドエンジニア養成スクールです。
iSaraに参加することで、自分と同じような価値観・立場の受講生や先輩フリーランスの人たちと知り合えたのは、とても良い刺激になりました。今でもつながりがあり、フリーランスの自分にとっての居場所のひとつになっています。
興味があること、今後やりたいこと
- Web制作のお仕事・勉強を続けつつ、フリーランスとしてもっと稼げるようになる(30歳までに年収1000万)。
- エンジニアとしてのスキルを高める(現在はWebサービスを開発してみたく、バックエンド(主にPHP/Laravel)勉強中。)
- チームを組んで、なにかひとつの仕事に取り組む
ざっくりとした感じですが、上記にとらわれすぎず、自分の興味・関心を大切に柔軟に動き回りたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
何かあれば、お問い合わせフォームかTwitterからご連絡いただけるとうれしいです。